CULTURE / $UMØ GΛL4X¥ COLUMN / 2026.08.03
002 — DOWN / UP / GAL
上がってんの?
下がってんの? はっきりさせとけ!
ルーズソックスは下がる。
でも、気分は上がる。

上がってんの? 下がってんの? はっきりさせとけ!
ルーズソックスは下がっている。
どう見ても下がっている。
靴下として本来あるべき位置から、完全に下がっている。
普通の靴下なら、ずり落ちてきたら上げる。
しかし、ルーズソックスは違う。
下げる。
もっと下げる。
そして、たるませる。
靴下として考えれば、少しおかしい。
では、それを履いていた本人たちの気分はどうだったのだろう。
上がっていた。
たぶん、かなり上がっていた。
KICK THE CAN CREWの「マルシェ」になぞらえて問うならば、
「上がってんの? 下がってんの?」
ルーズソックスに関していえば、答えは簡単だ。
両方である。
靴下は下がっている。
でも、気分は上がっている。
今回は、この奇妙な上下運動について考えてみたい。
なぜ私たちは、かわいくすると気分が上がるのだろう。
そして、なぜギャルたちは、あれほどまでに「盛った」のだろう。
下げるほど、かわいい
前回、ルーズソックスについて「ルーズ=ゆるい」という視点から考えた。
制服という「きちんと着ること」を求められる服に対して、あえて靴下をたるませる。
学校へは行く。
制服も着る。
でも、言われたとおりには着ない。
そこに私は、制度と自分との間に少しだけ余白をつくる「緩い革命」のようなものを感じた。
今回は、そのルーズソックスを別の角度から眺めてみたい。
ルーズソックスは、ただ「ゆるい」だけではない。
盛っている。
大量の布を足首にためる。
普通の靴下なら必要のない量の生地を使う。
50センチでいいなら70センチ。
70センチでいいなら100センチ。
もっといけるなら、もっといく。
この感覚は、何かに似ている。
そう。
まつげである。
一本でも長く。
一枚でも多く。
もっと目を大きく。
もっと盛る。
「もう十分じゃない?」
という地点からが、本番なのである。
ギャル文化には、この「適量を信用しない」という態度が何度も顔を出す。
髪を盛る。
まつげを盛る。
ネイルを盛る。
厚底で身長を盛る。
プリクラで顔を盛る。
そして、ルーズソックスで足元まで盛る。
足し算。
さらに足し算。
また足し算。
引き算の美学など、知ったことではない。
「自然な感じが一番かわいいよ」
と言われても、
「いや、こっちのほうがかわいいし」
で終わる。
この潔さがギャルである。
「盛る」は、嘘をつくことなのか
ところで、「盛る」という日本語は面白い。
料理を皿に盛る。
髪を盛る。
写真を盛る。
そして、話を盛る。
「話を盛る」といえば、実際よりも大げさにすることだ。
そう考えると、「盛る」にはどこか、本当の自分以上に見せるというニュアンスがある。
プリクラで目を大きくする。
つけまつげでまつげを長くする。
厚底で背を高くする。
メイクで顔を変える。
現代なら、加工アプリで肌を整える。
これらを「本当の自分を偽っている」と批判することもできる。
しかし、そもそも「本当の自分」とは何なのだろう。
朝起きた瞬間の顔だけが、本当の自分なのだろうか。
髪を整えた自分は偽物なのか。
お気に入りの服を着た自分は偽物なのか。
メイクをして少し自信を持てた自分は、本当ではないのか。
盛るとは、自分ではない何かになることではなく、
自分がなりたい自分に、少し近づくこと
なのではないだろうか。
そう考えると、ギャル文化の「盛り」は単なる虚飾ではなくなる。
そこにあるのは、
「私はこう見られたい」
だけではない。
「私はこうありたい」
という意思である。
「かわいい」は、誰のためにあるのか
ファッションについて話すとき、私たちはすぐに「他人からどう見られるか」を考える。
モテる服。
好感度の高いメイク。
男性ウケ。
女性ウケ。
会社で浮かない服。
TPO。
もちろん、服には社会的な側面がある。
人間は一人で生きているわけではないから、他人の視線から完全に自由になることはできない。
しかし、ギャルの「かわいい」を見ていると、それだけでは説明できないものがある。
あの長すぎるルーズソックスは、本当に全員から好かれるためのものだったのだろうか。
あの巨大な盛り髪は?
長すぎるまつげは?
長すぎるネイルは?
もし「万人から好かれること」が目的なら、もう少し無難な地点で止まったほうがいい。
でも、止まらない。
むしろ、
「そこまでやる?」
というところまで行く。
なぜか。
自分たちがかわいいと思うから
である。
ここに、ギャル文化の強さがある。
「かわいい」の決定権を、完全には他人へ渡さない。
大人がどう思うか。
学校がどう思うか。
世間がどう思うか。
それよりも先に、
「うちら的にかわいいか」
がある。
かわいいとは、他人から受け取る評価である以前に、自分たちから始める宣言なのだ。
「かわいい」は感情を動かす
お気に入りの服を着た日に、少し気分が良くなったことはないだろうか。
髪型がうまく決まった朝。
新しい靴を履いた日。
メイクがいつもより上手にできた日。
鏡を見て、
「今日、ちょっといいじゃん」
と思えた日。
その日の世界が、昨日より少しだけマシに見える。
外の世界は何も変わっていない。
景気も変わっていない。
会社も学校も変わっていない。
電車も同じ時間に来る。
それなのに、自分の見た目が少し気に入っただけで、世界の見え方まで変わることがある。
不思議である。
だとしたら、ファッションとは単なる装飾ではない。
自分の感情を動かすための技術
でもあるのではないだろうか。
服を着ることで気分を変える。
髪を巻くことで気分を変える。
まつげを上げることで気分を変える。
ルーズソックスを下げることで、気分を上げる。
つまり「かわいくする」という行為は、自分の外見だけを加工しているのではない。
自分の内側まで動かしている。
ここで、あの問いが戻ってくる。
上がってんの?
下がってんの?
やはり、両方なのである。
気分は、待つものなのか
私たちは気分というものを、どこか天気のように考えていないだろうか。
今日は気分がいい。
今日は気分が悪い。
今日はなんとなくやる気が出ない。
まるで空から雨が降るように、気分も勝手にやってくる。
確かに、そういう部分はある。
理由もなく落ち込む日はある。
何をしても楽しくない日もある。
人間は、自分の感情を完全にはコントロールできない。
しかし、本当に待つことしかできないのだろうか。
音楽をかける。
コーヒーを飲む。
友達に会う。
散歩する。
服を着替える。
髪をセットする。
私たちは日常的に、小さな方法で自分の気分を調整している。
つまり人間は、
気分が変わるのを待つだけでなく、気分が変わる環境を自分でつくることもできる。
ギャル文化における「盛る」という行為は、その分かりやすい例だったのではないだろうか。
かわいいから気分が上がる。
気分が上がるから、さらにかわいくする。
そこに、小さな循環が生まれる。
社会が暗いのに、なぜギャルは明るいのか
90年代後半から2000年代を思い返してみたい。
平成ギャル文化には、妙な明るさがある。
プリクラ。
パラパラ。
カラオケ。
渋谷。
厚底。
ルーズソックス。
デコ。
キラキラした携帯。
雑誌を開けば、派手な文字と派手なモデル。
ものすごく元気に見える。
しかし、その時代の日本社会そのものが、同じように元気だったかというと、そうではない。
バブル崩壊後の長い停滞。
就職氷河期。
将来への不安。
相次ぐ大きな事件。
そして、「失われた10年」という言葉。
社会全体として見れば、決して能天気に明るい時代ではなかった。
では、なぜギャルはあれほど明るく見えたのだろう。
社会が明るいから、自分も明るい。
それなら話は簡単である。
しかし、ギャルがしていたのは、
社会が暗いのに、自分たちの周囲だけは明るくすること
だったのではないだろうか。
浜崎あゆみは、暗さを抱えたまま輝いた
このことを考えるとき、浜崎あゆみの存在は外せない。
金髪。
ネイル。
ヒョウ柄。
大きなサングラス。
派手な衣装。
デコレーションされた携帯電話。
ファッションだけを切り取れば、これ以上ないほど華やかである。
しかし、その歌の中に現れる「私」は、必ずしも底抜けに明るい人物ではなかった。
孤独。
不安。
居場所のなさ。
自分が何者なのか分からない感覚。
華やかな外見と、内側の暗さ。
その二つが同居していた。
ここに、平成の「アゲ」を考えるヒントがある。
ギャルは、悩みがないから明るかったのではない。
不安がないから派手だったのでもない。
暗い日もある。
孤独な日もある。
自信がない日もある。
それでも髪を巻く。
まつげを上げる。
ネイルをする。
ルーズソックスを履く。
そして、街へ出る。
つまり「アゲ」とは、もともと明るい人間の状態ではないのかもしれない。
暗さを抱えた人が、それでも自分を明るいほうへ連れていく行為
だったのではないだろうか。
「アゲ」は自家発電だったのではないか
「アゲる」という言葉は、今聞いても意味が分かる。
テンションをアゲる。
気分がアガる。
場が盛り上がる。
しかし、ギャル文化における「アゲ」を、単なるハイテンションとして片づけるのはもったいない。
アゲとは、
自分たちで楽しい状態をつくること
だったのではないだろうか。
プリクラを撮る。
デコる。
友達と集まる。
音楽を聴く。
踊る。
かわいくする。
誰かが「楽しいもの」を用意してくれるのを待たない。
自分たちで勝手に楽しくなる。
言うならば、
感情の自家発電
である。
景気が良くなるのを待たない。
社会が明るくなるのを待たない。
誰かが自分を肯定してくれるのを待たない。
とりあえず、今日の自分を盛る。
友達と「かわいい」と言い合う。
プリクラを撮る。
そして、少し機嫌が良くなる。
これは大げさな社会運動ではない。
政治的な革命でもない。
でも、生活の技術として考えると、かなり強い。
外の世界がどうであれ、自分の周囲数メートルくらいは自分たちで明るくする。
それが、ギャルの「アゲ」だったのではないだろうか。
他人からの「いいね」がなくても、かわいいのか
ここで、現代との違いも考えてみたい。
今、私たちは自分の見た目を簡単に他人へ公開できる。
服を買う。
写真を撮る。
SNSへ載せる。
反応を見る。
いいねが付く。
コメントが来る。
つまり、「かわいい」が数字になる。
もちろん、平成にも他人からの評価はあった。
むしろギャル文化は、仲間同士の視線を非常に重視していた。
しかし現在は、その評価が可視化され、数値化され、比較できる。
100いいね。
1000いいね。
1万いいね。
すると、少し妙なことが起こる。
自分がかわいいと思ったから投稿したはずなのに、いつの間にか、
他人から評価されたから、かわいい
へと順序が逆転する。
ここでも、ギャルの「うちらがかわいいと思えばいい」という乱暴さは、案外重要なのかもしれない。
かわいいを、他人の採点から取り戻す。
それは簡単ではない。
でも、少なくとも自分の気分くらい、自分で少し上げてもいい。
「自分の機嫌は自分で取る」は本当に正しいのか
近年、「自分の機嫌は自分で取る」という言葉をよく耳にする。
一見すると、ギャルの自家発電にも近い。
しかし、この言葉には少し怖いところもある。
つらくても自分でなんとかしろ。
落ち込んでも人に迷惑をかけるな。
助けを求めず、自分で処理しろ。
そういう意味になってしまえば、かなり息苦しい。
人間は一人では生きられない。
機嫌を誰かに取ってもらう日があってもいい。
友達に愚痴を聞いてもらってもいい。
だから、ギャル文化の面白さは、
一人で自家発電していなかったこと
にもあると思う。
「かわいい!」
「それヤバい!」
「超いいじゃん!」
友達同士で言い合う。
一人の気分を、別の誰かが上げる。
そして、上げてもらった人が、また誰かを上げる。
これは個人の自己肯定というより、
機嫌の共同発電
だったのかもしれない。
「盛る」は共同作業だった
ギャル文化には、「うちら」という言葉がよく似合う。
「私」だけではない。
「うちら」。
この感覚は重要だ。
ルーズソックスも、一人だけで履いていたら、単なる変わった靴下だったかもしれない。
みんなが履く。
友達が履く。
街にいる女の子が履く。
雑誌に載る。
それを見て、別の街の女の子が履く。
そして文化になる。
つまり「かわいい」は、個人の頭の中だけで完成するものではない。
誰かが「それ、かわいい」と言ってくれる。
それを聞いて、自分も「かわいい」と思える。
そこに循環がある。
人は、自分一人だけで自分を肯定できるほど強くない。
だからこそ、文化があるのかもしれない。
同じ服を好きになる。
同じ音楽を聴く。
同じ言葉を使う。
そして、
「それでいいじゃん」
と言い合う。
ギャル文化の明るさは、個人の性格だけではなく、
集団でつくられた明るさ
だったのではないだろうか。
下がっているから、上がれるのかもしれない
さて、もう一度ルーズソックスへ戻ろう。
ルーズソックスは下がっている。
それは間違いない。
しかし同時に、盛っている。
下がっているのに、盛っている。
この矛盾があるからこそ、気分は上がる。
常識から少し下がる。
規則から少し外れる。
「普通」から少し離れる。
そのズレの中で、自分の好きなものが立ち上がってくる。
もしかすると人間は、ずっと上へ上へと向かう必要はないのかもしれない。
成長する。
成功する。
評価を上げる。
給料を上げる。
フォロワーを増やす。
現代社会には、上方向の言葉があふれている。
しかしギャルの足元を見ると、そこには明確な「下」がある。
それなのに、楽しそうだ。
むしろ楽しそうだからこそ成立している。
これは少し救いではないだろうか。
すべてを上げなくてもいい。
何かを下げることで、別の何かが上がることもある。
景気は上げられない。でも、まつげなら上げられる
社会には、自分一人ではどうにもならないことがたくさんある。
景気。
物価。
会社。
学校。
政治。
将来。
それらを前にすると、自分はとても小さく感じる。
でも、自分で変えられるものもある。
今日、何を着るか。
どんな音楽を聴くか。
誰と会うか。
髪をどうするか。
まつげをどこまで上げるか。
それは社会全体から見れば、取るに足らないことかもしれない。
でも、人間は「社会全体」を生きているわけではない。
今日という一日を生きている。
だったら、今日の自分の気分を少し良くすることには意味がある。
幸せだから、かわいくするのではない。
かわいくすることで、少し幸せになる。
世界が明るいから笑うのではない。
自分たちの周囲を少し明るくして、その中で笑う。
そう考えると、ギャル文化の「アゲ」は、単なるハイテンションではなかったのかもしれない。
それは、
自分たちの機嫌を、自分たちでつくる技術
だった。
そしてその技術は、形を変えながら今も続いている。
ルーズソックスは下がっている。
でも、気分は上がっている。
そして、その間にはいつも「盛る」という行為がある。
上でもなく、下でもなく。
そのあいだで、人は自分のテンションをつくっているのかもしれない。
だから最後に、もう一度聞いてみたい。
上がってんの?
下がってんの?
ルーズソックスに関していえば、やっぱり答えは、
両方でいい。