CULTURE / $UMØ GΛL4X¥ COLUMN / 2026.07.30
001 — BEAUTIFUL EXCESS
まつげとルーズソックスは長ければ長いほどいい
Y2Kの足元から、「ゆるさ」と余白を考える。

現在、Y2Kブームが真っ盛りだ。
当時を知る人間としては、「Y2K」という言葉を聞くだけで、目を閉じればあの頃の景色がぼんやり
蘇ってくる。
安室奈美恵が街を席巻し、
ミニモニ。が「元気だぴょん!」していた時代。
厚底、細眉、プリクラ、ガラケー、そしてギャル。今振り返ると、何もかもが輝いていたように見える。
当時は、不景気や閉塞感も今ほどには意識されず、世の中全体がどこか調子に乗っていた時代
だったのではないだろうか。
……と言いたいところだが、よく考えればそんな単純な話でもない。
バブル崩壊後の空気はすでに社会を覆い、ノストラダムスの大予言は子どもたちを妙に不安にさ
せ、オウム真理教事件のような出来事も起きた。明るく浮ついて見える文化のすぐ隣には、何とも言
えない暗さや不穏さがあった。
調子に乗っている時ほど、足元をすくわれる。
だからこそ、足元はしっかり見ておかなければならない。
そう、足元だ。
Y2Kの足元といえば、私たちの世代にとって真っ先に思い浮かぶものがある。
それは「ルーズソックス」である。
白く、長く、だらりとたるみ、制服の足元を必要以上に膨らませるあの靴下。
今では「平成ギャル」の象徴として、再び若い世代に履かれている。
考えてみれば、ギャルという存在は今も昔も不思議だ。
世の中がどれだけ暗くても、足元まで明るく照らしてくれる。
派手で、開放的で、底抜けに明るい、自分たちなりの信念「かわいい」を疑わない。
そんなギャル文化の象徴の一つである、「ルーズソックス」について少し考えてみたい。
なぜ、あれは「ルーズ (loose) 」だったのか。
そして、なぜ今になって再び私たちは、その「ゆるさ(ルーズ)」に惹かれているのだろうか。それを今
から考えてみようと思う
「ルーズ」とは何がゆるいのか
そもそも loose とは、「ゆるい」「締めつけられていない」「固定されていない」といった意味を持つ英
語である。
ルーズソックスは、その名の通り脚にぴったりとは沿わない。
長い靴下を足首へ落とし、生地を余らせ、しわをつくる。
だからルーズ。
一見、話はそれで終わりそうだ。でもそれだけだろうか?
ルーズソックスを履いていた女子高生たちの姿を思い返してみると、もう一つ別の「ルーズ」が見えて
くる。
「制服」である。
「制服」というのは、考えてみればかなり不思議な服だ。
同じ学校へ通う人間に、ほぼ同じ服を着せる。
ジャケット。
シャツ。
スカート。
靴下。
靴。
しかも、それぞれに「正しい着方」がある。
スカートはこのくらいの丈。
靴下はこう。
髪はこう。
シャツはこう。
つまり制服とは、身体を「きちんとした形」に整えるための服でもある。
欅坂46(現櫻坂46)の衝撃のデビュー作「制服のマネキン」で秋元康が描いたのはそういう違和感を
現している。
欅坂の違和感への対抗が精神的な対抗だとしたら、
ルーズソックスは制度への緩い反抗。緩い革命それがルーズソックスだ。
規制のルールがある靴下をあえて伸ばさない。
むしろ、わざとたるませる。
きれいに履かないことが、完成形になる。
「だらしないから直しなさい」と言われそうな状態を、あえてわざとつくることによる現状への緩い反抗
である。
しかもルーズソックスの流行が加速すると、
そのたるみはどんどん大きくなっていった。
長ければ長いほどいい。
まつげと同じである。
普通なら「そのへんでやめておこう」となる地点を、軽々と越えていく。
ギャル文化には、ときどきこの「適量を信用しない」という態度が現れる。
十分長いのに、もっと長くする。
十分盛れているのに、もっと盛る。
「それくらいが自然だよ」という外部の声に対して、
「いや、うちらはこっちのほうがかわいいから」
と返す。
ここには、単なる流行以上のものがあるように思う。
「ちょうどいい」は誰が決めるのか
私たちは日常的に「ちょうどいい」という言葉を使う。
ちょうどいい服装。
ちょうどいい化粧。
ちょうどいい距離感。
ちょうどいい働き方。
ちょうどいい自己主張。
では、その「ちょうどいい」は誰が決めているのだろう。
自分だろうか。
他人だろうか。
学校だろうか。
会社だろうか。
世間だろうか。
なんとなく今まで決められた慣習だろうか。
何にせよ、ほとんどの場合「私(自分)」が決めているのとは違うということだ。
そんな中、「ルーズソックス」が面白いのは、その私が省かれた「ちょうどいい」という観点から、私が
溢れ出しているということだ。
周りの人、世間、大人、学校、慣習が可愛くなくても私や周りの友達が可愛ければそれでいい。
長すぎるのが可愛い。
たるみすぎているのが可愛い。
可愛いと思って生き生きしている自分が可愛い。
そもそも機能だけを考えれば、必要のない部分である。
しかし、その余った部分こそがかわいい。
つまりルーズソックスでは、
「余分なもの」が価値になる。
これは結構すごいことである。
私たちの社会は基本的に、余分なものを減らそうとする。
無駄な時間を減らす。
無駄な作業を減らす。
無駄なスペースを減らす。
無駄な出費を減らす。
効率を上げる。
もちろん、それ自体は悪いことではない。
しかし、すべてから無駄を取り除いたら、最後に何が残るのだろう。
ルーズソックスは「余白」を履いていた
ルーズソックスを別の言葉で表現するなら、私は「余白」だと思う。
身体と靴下のあいだに、大量の余白がある。
脚の輪郭にぴったり合わせる必要がない。
布が余る。
その余った布が重なり、独特の形をつくる。
つまりルーズソックスは、
余白を削るのではなく、余白そのものをデザインした服
だったのではないか。
これは服以外のことにも当てはまる。
私たちの生活にも余白がある。
予定と予定のあいだ。
会話の沈黙。
何もすることのない休日。
待ち合わせに早く着いてしまった十分間。
目的もなく歩いている時間。
こうした時間は、効率だけを考えれば無駄である。
しかし、本当に無駄なのだろうか。
友人との会話で、何となく黙っている時間。
一人で電車の窓を見ている時間。
喫茶店でコーヒーを飲み終えたのに、なぜか帰らずに座っている時間。
そういう時間の中でしか考えられないこともある。
そういう時間にしか出てこない感情もある。
昔を想い出して懐かしむのは、時間の無駄なく過ごした一日のことなのだろうか?
いやそういう無駄な時間を全力で生きてきた刹那的な一瞬でなないだろうか。
だとしたら、余白とは「何もない部分」ではない。
まだ何になるか決まっていない部分
なのかもしれない。
私たちは空白に耐えられなくなったのか?
ここで現在の生活を考えてみる。
電車を待つ三分間。スマートフォンを見る。
エレベーターを待つ三十秒。スマートフォンを見る。
待ち合わせに早く着いた十分間。スマートフォンを見る。
寝る前。スマートフォンを見る。
もちろんトイレでも見る。
「何かをする+α」=タイパ、コスパのいい人生⇒素晴らしい人生
人類はいつの間に、こんなに暇が嫌いになったのだろう。
昔なら何もできなかった時間に、今は情報を詰め込むことができる。
人は何かをしながら
ニュースを見る。
動画を見る。
SNSを見る。
誰かから連絡が来る。
誰かの生活を見る。
誰かと自分を比較する。
空白が生まれるたびに、それを埋める。
便利になったとも言える。
しかし、少し不思議でもある。
なぜ私たちは、そこまでして余白を埋めるのだろう。
何もしていない自分に、不安を感じてはいないだろうか。
休日なのに、
「今日は何もできなかった」
と言ってしまうことがある。
しかし休日なのだから、何もしなくてもいいはずだ。
なぜ休みの日にまで、何かを「できた」かどうかで自分を評価するのだろう。
「ゆるい」はいつから褒め言葉になったのか
面白いことに、日本では「ゆるい」という言葉が、いつの間にか肯定的な意味を持つようになった。
かつて「ルーズ」は、かなりネガティブな言葉だった。
時間にルーズ。
お金にルーズ。
生活がルーズ。
どれも褒め言葉ではない。
ところが、その後、
「ゆるキャラ」
という言葉が登場する。
完成されすぎていない。
少し変。
少し間が抜けている。
その「ゆるさ」そのものがかわいいとされる。
さらに、
「まったりする」
「ゆるくやる」
「無理しない」
といった表現も、肯定的に使われるようになる。
そして近年では、
「チルする」
という言葉が定着した。
チルい音楽。
チルい場所。
今日はチルする。
これらはすべて微妙に意味が違う。
しかし共通しているのは、
緊張していない状態に価値を見いだしている
ということである。
ここで、一つ考えてみたい。
なぜ私たちは今、「ゆるむこと」をわざわざ求めるようになったのだろう。
チルとは「何もしないこと」なのか
チルという言葉から想像される光景は、どこか静かである。
音楽を聴く。
カフェで過ごす。
友人とゆっくり話す。
一人でぼんやりする。
何か大きな成果を出す必要はない。
シーシャカフェなどが「チル」という言葉と結びついて語られるのも、この感覚と無関係ではないだろ
う。
ここで重要なのは、シーシャそのものではない。
そこにある時間の流れ方である。
すぐに帰らない。
すぐに答えを出さない。
長く座る。
話す。
黙る。
ぼんやりする。
つまり、効率が悪い。
そして、その効率の悪さを楽しむ。
考えてみれば、これは少し贅沢なことである。
現代では「何もしないこと」にすら、意志が必要になっている。
スマートフォンを閉じなければならない。
予定を入れないようにしなければならない。
返信を後回しにしなければならない。
休むために、努力しなければならない。
なんだかおかしな話である。
平成のルーズと、令和のチル
もちろん、ルーズソックスからチル文化が生まれたわけではない。
そこに直接的な歴史の線を引くことはできない。
しかし「ゆるさ」という視点から両者を並べてみると、興味深い違いが見えてくる。
平成のルーズソックスがゆるめたものは、
身体と規則との関係
だった。
制服を着る。
しかし、その通りには着ない。
学校には行く。
しかし、学校が想定した姿には完全にはならない。
つまり、
「きちんとしろ」に対する、ゆるさ
だった。
一方、現代のチルがゆるめようとしているものは、
自分と社会の速度との関係
なのかもしれない。
早く返信する。
情報についていく。
仕事をする。
成長する。
発信する。
比較する。
その速度から、一時的に離れる。
つまり、
「止まるな」に対する、ゆるさ
である。
この二つは同じではない。
しかし、どちらにも「少し距離を取る」という動作がある。
そして令和のルーズソックスは、あまりルーズではない
さらに面白いのが、現在復活しているルーズソックスである。
平成のルーズソックスと比べると、現在のものは短く、すっきりしている。
平成には大量の布を足首にためるようなスタイルが流行した。
今は軽くクシュっとさせる。
つまり皮肉なことに、
令和のルーズソックスは、平成ほどルーズではない。
なぜだろう。
おそらく、ルーズソックスが持つ意味そのものが変わったからだ。
当時、それは現役の女子高生が自分たちの制服を変形させるファッションだった。
今では、
「平成っぽい」
「Y2Kっぽい」
「ギャルっぽい」
という過去の文化を引用するアイテムになっている。
平成のルーズソックスは、当事者の「現在」だった。
令和のルーズソックスは、選択できる「過去」である。
だから、当時ほど過剰である必要がない。
少しだけルーズであれば、意味が伝わる。
それはそれで現代的である。
「ゆるむ」と「弱くなる」は同じなのか
ここまで「ゆるい」という言葉について考えてきた。
しかし最後に、一つだけ問い直したい。
私たちは、
ゆるむことを、どこかで弱さだと思ってはいないだろうか。
きっちりしている人は強い。
規則正しい人は偉い。
忙しい人は必要とされている。
予定が埋まっている人は充実している。
そんな価値観は、まだかなり強い。
しかし、本当にそうなのだろうか。
力を入れ続けている筋肉は、いつか疲れる。
張りつめ続けている糸は、切れる。
握りしめた手には、新しいものを持つ余裕がない。
ならば、
ゆるむことは、弱くなることではなく、余白を取り戻すこと
なのかもしれない。
余白は、本当に無駄なのか
もう一度、ルーズソックスを見てみる。
そこには大量の余った布がある。
必要かと聞かれれば、必要ではない。
普通の靴下なら、もっと少ない布で足を覆うことができる。
でも、その「必要ではない部分」がなければ、ルーズソックスにはならない。
無駄があるから、かわいい。
余っているから、形になる。
効率が悪いから、文化になる。
これは、少し希望のある話だと思う。
私たちはいつの間にか、人生のいろいろなものに意味を求めすぎている。
仕事には成果。
勉強には成績。
運動には健康。
趣味には上達。
旅行には写真。
休暇には充実。
では、何の役にも立たないものは、存在してはいけないのだろうか。
目的もなく友達と話すこと。
意味もなく遠回りすること。
何となく好きだから集めているもの。
何も考えずに過ごす午後。
そういうものがなくなった人生は、本当に豊かなのだろうか。
ルーズソックスが教えてくれること
もちろん、90年代の女子高生たちが、そんなことを考えながらルーズソックスを履いていたわけでは
ないだろう。
「これは現代社会における余白の象徴である」
などと言いながら登校していたら、それはそれで怖い。
たぶん、もっと単純だった。
かわいいから。
みんなが履いているから。
脚が細く見えるから。
好きだから。
それでいい。
むしろ、そこが大切なのかもしれない。
文化というものは、最初から大きな意味を背負って生まれるとは限らない。
「なんかかわいい」
「なんか好き」
という小さな感覚から始まり、後になって振り返ると、その時代の価値観がそこに映り込んでいる。
だからルーズソックスを見ながら、私たちは今の自分たちについて考えることができる。
平成の若者は、制服と身体のあいだに余白をつくった。
令和の私たちは、どこに余白をつくろうとしているのだろう。
仕事と自分のあいだだろうか。
SNSと自分のあいだだろうか。
人間関係だろうか。
「こうあるべき」という自分自身への期待だろうか。
答えは人によって違う。
でも、もしかすると大切なのは、
全部をぴったり合わせないこと
なのかもしれない。
服と身体。
社会と自分。
予定と時間。
他人の期待と、自分の気持ち。
少しくらい余っていていい。
少しくらい、たるんでいていい。
そして、ときには「ちょうどいい」から大きくはみ出してもいい。
だって、まつげとルーズソックスは、
長ければ長いほどいいのだから。
文:$UMØ GΛL4X¥(VLUER 副編集長)